在りし日の監督たちを偲ぶ

私が今の業界に入ったのは25歳の時。バブルと呼ばれた景気の実態が明らかにされ、徐々に潮が引き始めた時だった。
当時の私は映像メディアといえばテレビであり映画でありCMしかないと思っていたのだが「ドキュメント」というジャンルは知っているようで実態をほとんど把握はしていなかった。


勤めていた会社は数十年を経る中で急速に勃興してきたことで、人材が不足していた。特に作品の制作を司る「演出」に事欠いていた。


カメラマンというのは特殊技能ではあるけれど、それは高価な機材を渡して「行って来い」と命じて任せておけば、どうにかなるものだ。当然数多くの失敗を経ることにつながってはいくが(異論歓迎)。時間と共に洗練され、脱落する人もあるだろうけれど、ある程度にある程度の人が収斂されながらその域に達していく。
しかし演出という立場はそうはいかない。


作品全般のクオリティを担保し、管理し、時にカメラマンを指導し、時に制作助手の甘さに苦言しながら、担った業務以上の責任を皆課せられていたからだ。


彼らはまさに七人の侍の野武士そのものだった。
野党に攻められることからの自衛策として招かれた武力であったし、与えられた給金に見合わない職務を担っていたのまで酷似していた。


その野武士たちはバラエティに富んでいた。
ドキュメント界でもその高名轟く市川崑と一緒に仕事に携わっていた者、世界のクロサワに参加していた者、あるいはこちらも急速に勃興していた香港映画界に参画していた者。


彼らの中で当社の仕事によって「蔵」を建てたという人は一人もいなかった。時に自身の待遇について不平不満などを夜の宴席で吐き出していたとはいえ、結果彼らは彼らの職分以上のものを後続の者に伝えながら、誰しもひたすら職務に従事していた。


彼らの身なりはなぜか総じて汚く、異臭を放っていた。宴席では絡み、叫び、金にはルーズな人が多かったけれど、私には彼らの背中は格好良かったし、言動は清く美しかった。


また彼らは左翼だった。
彼らは戦後世代を生き抜いた初期の世代であったし、時代的な背景もあったろう。また表現の自由を標榜する上で映画映像といったジャンルは当時格好のフィールドでもあったのだろう。
政治的な話題は勿論の事、差別や貧困、アイデンティティなど酒のツマミたる話題には事欠くことなく、我々制作見習いは皆その薫陶を十分すぎるほど浴びせられていた。


私は会社に入った時まさに「黙って三年働く」という事を地で行っていた。当時はそれこそ徒弟制度の激しい現場であったから鉄拳制裁は当たり前であって、パワハラなどの開明政策などあるわけもなく、日々懇々と朝から晩までひたすら謝り倒しながら、周囲に気を配りながら過ごしていた。


叱られることについては私は頭の回路を数回線ほど遮断していたために全くスルーできたので、鬱になってどこかに彷徨うような事はしなかったのだが、私の状態を見た周りのスタッフが非常に同情してくれたのか、いてもたっても居られなくなったのかは分からないが、皆が私に世話を掛けてくれたのはありがたかった。


私は一人暮らしをしていたし、薄給であったので夕食に招かれたり大勢の輪に招き入れてくれたことは様々な面で感謝していたし寂しいと感じなかった。
特に、私のストイックな当時の様は「野武士」たちの琴線にも触れたようで、ロケが終わってからも夜な夜な電話を掛けてくれて誘ってくれて、私の面倒を見てくれたものだった。


当たり前だが、私は歴戦の猛者たる彼らに対して言うべき言葉が何もなかった。
経験もない、知識もない。あるのは増幅する自我だけだったから。でも彼らはなぜか私の空想を聞きたいと言っていた。話せ、叫べと毎回言われ、彼らの望むままの私の非現実な空想、説得力の全くない絵空事を杯を傾けながら聞き入ってくれたものだった。


その後社内での配置転換があり、野武士たちとの協業から私は離れてしまった。そして私も会社を離れて独立してしまってからは、風の便りでしか彼らの消息を知ることができなくなってしまったが、徐々に私の目の届かない場所へと逝かれてしまったようだった。


「こいつは見込みがある。スポンサーを前にここまで大見得切ったやつは見たことがない!」と言ってくれた監督。
「お前は他の誰にもない、光るものを持っている。」と言ってくれた監督。
私が賞を得た時に真っ先に脳裏に浮かんだのは貴方達の顔でした。
私は見て欲しかった。そして意見が聞きたかった。


貴方達の知恵や経験を私は十分に継承できていない。でも私はやがて当時の私が出会った時の「貴方達」になろうとしている。
私がそうした役分を担えるかどうか、これから見守っていてください。

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